水素イオン注入による漆塗膜の耐光性向上

[製品科学部]   粟津薫
製品科学部   安井治之
製品科学部   笠森正人
製品科学部   市川太刀雄

透きろいろ,透きつや,黒ろいろ,黒つや漆塗膜の表面に,0.2〜150kVに加速した水素イオンを注入し,促進耐光性試験を行って,漆塗膜の耐光性に及ぼす加速電圧の影響を検討した。得られた結果を以下に示す。
(1)水素イオンの注入では,注入量が1×1015ions/cm2程度であれば注入による光沢度の上昇を極力抑えることが可能である。
(2) 400MJ/m2の紫外線照射後の光沢残存率に及ぼす加速電圧の影響は,加速電圧が高くなるほど大きくなる。加速電圧が60kV 以上では,光沢残存率は50%以上を示す。色差は,紫外線照射前の低い値を示し,耐光性改善効果が明確に現れている。ま た,レーザ顕微鏡による注入/未注入境界層の観察から20kV程度の加速電圧でも水素イオン注入の効果が認められた。
(3) TRIM97によるシミュレーション解析から,イオン注入量が1×1015ions/cm2であればアモルファス化は2%程度であるの で,イオンの通過した領域でのウルシオールのラジカル化やイオン化により,ウルシオールの重合が促進するものと推察し た。この領域が紫外線に対するバリア層になり,漆塗膜の耐光性が向上したものと考えられる。
キーワード:水素イオン注入,加速電圧,漆塗膜,耐光性,光沢残存率,色差,レーザ顕微鏡,トリム

Effects of H-implantation Energy on the Optical Stability of H-implanted Urushi Films under Photo-irradiation

Kaoru AWAZU Haruyuki YASUI Masato KASAMORI Tachio ICHIKAWA

 Implantation of urushi films was performed with an ion dose of 1015 ions/cm2 and with acceleration energies of 0.2 to 150 kV at room temperature. The photo-irradiation onto the surfaces of urushi films was carried out at irradiated energies of 0 to 400 MJ/m2, using a Suga fade meter. Radiation and doping effects of urushi films were simulated with a TRIM97 code. H-implantation onto urushi films is useful for improving the optical stability under photo-irradiation when the implantation energy is lager than 40 kV. From the results, it is considered that radicals and ionization of urusiol may be generated by an inelastic collision of H-ions, and H-implantation with a high dose may also create an amorphous structure by exciting some molecules of urusiol. It is concluded that H-implantation is useful to produce a barrier against ultra violet light during photo-irradiation of the surface onto urushi films.
Key Words:hydrogen implantation, acceleration voltage, urushi film, optical stability, gloss, laser microscope, TRIM97

1.緒  言
 漆塗り製品は,日光や蛍光灯の光の照射により塗膜表面が劣化し,光沢度の低下や白亜化などを引き起こすことは周知のことである1)。この原因については,熊野谿は,漆塗膜の主成分であるウルシオールが重合する際,紫外線を吸収しやすいダイマーやオリゴマーが生成されるためであると説明している2)。漆塗膜の乾燥と固化は,ラッカーゼ(酵素)の助けをかりて, 表面から酸素の取り込み,ウルシオールの重合により行われる3)が,ウルシオール自身は,紫外線を吸収し ないので,ウルシオールの重合体の生成が漆塗膜劣化 の起因と考えられる。
 したがって,例えば,[1]ウルシオールの重合を抑止するために,漆塗膜の極く表面に酸素の進入を防止する薄い層を設ける。[2]漆塗膜の表面層にあるウルシオールの重合を促進させ,紫外線を吸収しにくい重合体に改質する。ことなどが可能であれば,漆の特性を生かしたままで,耐光性に優れた漆塗膜が得られることになる。
 本研究では,漆塗膜の特性を変化させないで,極く表面層だけを改質する方法として,水素イオン注入,特に注入する水素イオンの加速電圧を変えて,表面の改質層の深さを制御することにより,漆塗膜の耐光性改善効果を検討した。

2.試験装置及び方法


図1 ウルシオールの化学構造

 2.1 漆塗膜試料
 試験に用いた漆塗膜は,透きろいろ漆(SR)と鉄の酸化物を着色剤として入れた黒ろいろ漆(KR),およびそれらに天然油をつや剤として入れた透きつや漆(ST)と黒つや漆(KT)の4種類である。製漆後,アプリケータを用いて透明ガラス板上に塗布し,乾燥後冷暗所に保管していたもので,膜厚は43μmである。
 水素イオン注入のターゲットとなる漆塗膜は,ウルシオール(60〜65%),ゴム質(5〜7%),酵素(0.2%),水(25〜30%)からなる漆液が乾燥,固化したものである。その主成分のウルシオールは,図1に示すように,ベンゼン環にOH-基と側鎖Rがついた構造であり,構成元素の組成比は,C:40%, H:54%, O:6%であり,密度は1.25g/cm3である1)

 2.2 水素イオンの注入
 水素イオンの注入には,表1に示す4種のイオン注入装置を用いた。表中の理研200kV低電流イオン注入装置を除いて,質量分離装置が付いていないため,Hや Hなどの混合イオンが注入される。マイクロ波によるプラズマ生成の場合には,Hと Hで90%以上を示すと言われている4)。また,H+とH2+との割合は,プラズマ密度や温度により変化するので,その割合を調べるため,タンデム加速器による反跳イオン検出法(ERD)を利用して,試料に注入した水素イオンの分布を測定する方法を検討した。しかし,明確な結果は得られなかったので,HとHは同比率と考えた。水素イオンの注入量は,これまでの結果5,6)から漆塗膜表面の着色もなく,光沢の上昇も小さいと考えられる1×1015ions/cmを標準の注入量とした。

表1 水素イオン注入装置と注入条件


 2.3 評価試験
 紫外線照射には,促進耐光性試験機(フェードメータ:スガ試験機叶サ)を使用した。カーボンアーク灯から放射される光のスペクトルは,紫外線,可視光,赤外線領域からなる太陽光に近いものであり,フィルターは使用していない。試験槽内の温度は,67℃に設定し,黒体温度計で監視した。紫外線照射量は,積算光量計(スガ試験機叶サPH-52)により,水銀柱の高さを測定し,換算した。最大照射量は,屋外におけるほぼ1年間の日射量の相当する量である。
 耐光性の評価は,光沢残存率,曇り度,色差変化により行った。さらに,走査型レーザ顕微鏡による表面観察等も行った。

 2.4 TRIM97によるシミュレーション解析
ウルシオールへのイオン注入過程の解析のため,ウ ルシオールの元素組成比(C:40, H:54, O:6),密度 表1 水素イオン注入装置と注入条件 1.25g/cm3を用いて,TRIM97による水素イオン注入のシ ミュレーション解析を行った。注入イオン数は10,000個で,水素イオン注入により生ずる格子欠陥の分布やイオン化エネルギーの分布等の計算を行った。


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