平成10年度研究報告 VOL.48
漆器の分析技術の開発


3.結果と考察
3.1 赤外データベース
 1999年 3月現在測定データ 6,106件がフロッピーディスクに保存されている。データベースはデータ数が大きくなると検索時間が増え,類似データが多いと検索結果が偏ったものになるので,データの中から厳選した 348件をデータベースに登録した。市販(サドラー)のデータ集とあわせて13,248件の赤外データベースが完成した。データをJ-CAMP形式へ変換すると,他機種の FT-IRのデータと相互変換でき,他機関とのデータのやりとりも可能である。実際,岐阜県工芸試験場(1999年 4月,岐阜県生活技術研究所に改名)とe-メールでデータの交換を実施し,その迅速性や有効性を確認した。これにより種々の機関とデータを共有でき,相互の解析の依頼も可能になった。赤外吸収スペクトルの解釈には,化学の専門知識と経験が必要であるが,このシステムを利用すれば,解釈も検索もコンピュータによって迅速に行うことができる。この赤外データベースは,今後データを追加することによってさらに充実させていきたい。

3.2 赤外データベースを用いた物質の同定
 赤外吸収スペクトル(赤外線の吸収位置と吸収強度のパターン)が一致すれば,同一物質であると判定できる。赤外データベースを利用して物質を同定した例を示す。
試料1:塗膜試料の赤外吸収スペクトルのピークテーブル,解釈結果,検索結果を図3に示す。ピークテーブルは吸収位置とその透過率の一覧表である。解釈結果にはピークから予想される構造(アルキル基,水酸基,カルボニル基など)が表示された。検索結果はピークと解釈結果を基に赤外データベースの検索を行い,試料に近いものを並べたものである。その結果,試料1は漆であると判定された(図4)。
 図4では試料1と検索結果の吸収はほぼ一致している。ただ検索データの 990cm-1付近の吸収が大きいのはウルシオールトリエンによるもので,漆の硬化が充分でないことを示している。試料1の1740cm-1の吸収が大きいのはつや剤(油)のカルボニル基の存在を示している。このように漆の硬化の程度やつや剤の有無の判定も可能である。漆の顔料についても赤外分析である程度は可能であるが,X線分析を併用するとさらに確実性が増す。

図4 試料1(図中下線)と検索データ(図中上線)
の赤外吸収スペクトル
図3 試料1の(a)ピークテーブル,(b)解釈結果,(c)検索結果


試料2:塗膜試料の赤外吸収スペクトルのピークテーブル,解釈結果と検索結果を図5に示す。現れるピークからカルボン酸エステルでおそらくポリウレタンであることが予想された。ピークの位置優先でデータベースの検索を行った結果,ポリウレタン樹脂であると判定された(図6)。

図6 試料2(図中上線)と検索結果(図中下線)の赤外吸収スペクトル
図5 試料2の(a)ピークテーブル,(b)解釈結果,(c)検索結果


試料3:下地試料の赤外吸収スペクトルのピークテーブル,解釈結果,検索結果を図7に示す。解釈結果よりアルキル基水酸基,カルボニル基が含まれると推定されたが,混合物の場合にはデータベースの検索を行っても判定が難しく,ある程度の経験が必要である。この場合,混合物として検索された候補の中から2つを組み合わせて,地の粉と漆の混合物に近いものであると判定された(図8)。

図8 試料3(高波数側下線)と漆(高波数側中線),
地の粉(高波数側上線)の赤外吸収スペクトル
図7 試料3の(a)ピークテーブル,(b)解釈結果,(c)検索結果


3.3 ファイバーマイクロスコープによる塗膜の観察
 ファイバーマイクロスコープによる塗膜の断面を観察した例を示す。
試料4:図9にある漆器の断面の画像を示す。塗膜は2層で,赤外分析の結果と照合すると上塗りは黒漆(厚さ29μm),中塗りは朱漆(厚さ50μm)で,下地は地の粉(厚さ93μm)に近いものと推定された。
試料5:漆器の塗装欠陥(ふくれ)が発生した原因について分析した。上塗りは漆,中塗り,下塗りはポリウレタンであったが,ふくれ部の下には液体(赤外分析によりカルボン酸塩水溶液と推定)が存在した。塗膜を剥いで木地を観察すると,ふくれの下部にピンホールが見られた(図10)。ピンホールが原因でふくれが発生した可能性が高いが,どのようにしてふくれの中に液体がたまったかは解明できなかった。

3.4 レーザー顕微鏡による観察と測定
 漆器の熱水による変色は,ゴム質が溶出して塗膜に穴が生じるためであることが明らかになっている8)9)。試料6(変色する前)と試料7(熱水に80分さらして変色させた塗膜)の高さの分布を図11と12に示す。試料7は穴があいたため試料6と比較してヒストグラムで低いところの部分が増えているのがわかる。表面粗さに相当する高さの分散も約0.16から約0.24に増え,表面粗さが大きくなっている。このように変色による塗膜表面の変化を定量的に評価することが可能になった。

図9 漆器の断面図 図10 試料5の木地に見られた欠陥
図11 試料6(変色前)の高さ分布 図12 試料7(変色後)の高さ分布


3.5 X線分析顕微鏡による塗膜の測定
 赤外分析では有機物は判定できるが,無機物の判定は限られてくる。そこで,それを補うために蛍光X線による無機分析が必要となる。X線分析顕微鏡を用いて試料8(砥の粉)と試料9(地の粉)の分析を行った例を,それぞれ図13と14に示す。吸収強度から含まれる元素の重量濃度を計算すると,表1のようになる。地の粉と砥の粉に含まれる元素はほぼ同じであるが,その組成が異なるため(CaとSは地の粉の方が多い),判別が可能になる。

図13 試料8(砥の粉)のスペクトルデータ 図14 試料9(地の粉)のスペクトルデータ


表1 砥の粉と地の粉の構成元素の割合(wt%)
砥の粉 地の粉
Al 4.71 5.49
Si 41.22 36.68
S 0.00 0.68
K 1.67 1.15
Ca 0.05 0.58
Ti 0.13 0.09
Fe 0.43 0.49
O 51.79 51.84


4.結言
(1)赤外データベースを構築することにより漆器の塗料,下地,素材,添加剤などの材質判定が容易かつ迅速にできるようになった。
(2)ファイバーマイクロスコープを用いて,塗装工程や欠陥を判定できる。
(3)レーザー顕微鏡によって,塗膜の表面粗さ測定や欠陥分析ができる。
(4)X線分析顕微鏡によって,下地などの無機材料分析ができる。

謝辞
 試料提供にご協力いただいた輪島漆器商工業協同組合と山中漆器連合協同組合に感謝します。また本研究を遂行するに当たり,適切なご助言を頂いた金沢工業大学教授小川俊夫氏に謝意を表します。

参考文献
1)JIS K5950:精製漆
2)熊野谿従:Jasco Report,Vol.33,No.2,15-29(1991)
3)生漆データバンク:未発表
4)江頭俊郎:1996年秋期高分子学会北陸支部研究発表「多変量解析法を用いた漆産地の決定」
5)JIS K0117の6.2(1):錠剤法に基づく赤外定性分析
6)大出孝博:日経サイエンス,Vol.20,No.10,42-53(1990)
7)細川好則:材料科学,Vol.34,No.3,148-155(1997)
8)坂本誠・市川太刀雄・江頭俊郎:石川県工業試験場研究報告,Vol.41,23-31(1993)
9)市川太刀雄・江頭俊郎・坂本誠:石川県工業試験場研究報告,Vol.46,19-28(1997)


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