◆恩師ご挨拶


『一講会の発足を祝う』     横山 恭男
 「一講会」とは、「イチコウ(ザ)会」のことである。このホームページの冒頭にある定義によれば「・・・精密工学科第一講座をスタートに、 同じ建物の同じ三階に学生時代の良き思い出を持つ人々・・・」の同窓会なのだそうである。考えてみれば、会の定義としては、まことにユニークな表現だが、われわれには、それが最も素直に受け入れられるものなのである。

 精密工学科ができたのは昭和35年度である。この年は予算が国会を通過するのが遅れて、入試が5月に行われた。そのため創設は遅れたが、精密工学科にとっては良い結果をもたらしたと私は思っている。なぜなら入試倍率が跳ね上がって15倍強にもなり、質的にも非常に優秀な受験生が集まったからである。

 学科が新設されるときは学年進行といって毎年1講座相当分の教職員定員が配分される。初年度に移籍されたのは若島教授(応数物教室から)高沢助教授(機械工学科から)横山講師(同前)であった。

 昭和39年度に第1回生が卒業し、岡部佐規一君(別記参照)を助手に採用して、ほっと一息ついた記憶がある。

 官制的にはともかくも、「一講会」なるものの胎動が芽生えたのは一回生の卒業研究の配属がきまった昭和38年4月であるといえよう。この年度の第一講座は岩名教授(機械工学科兼担)横山助教授の体制であった。岩名教授は大学院修士課程の創設の申請のための書類上の兼担であって精密工学科の運営に参画されることは遂になかったが、私には、いろいろ有益なアドバイスを賜った。当時の学生諸君にとっても思い出深い名教授であったはずだ。  その後目出度く修士課程も創設され翌年度石川憲一君(現金沢工大学長)が第一講座初の修士課程学生として入学した。石川君は修士課程卒業後しばらく助手の席にいたが、やがて金沢工大の講師に栄転した。

 その後任の席には小泉邦雄君(現富山大教授)がついた。

 当時、修士の学生に神谷好承君(現金沢大学教授)がいたはずだ。

 いま振り返って見れば、後の博士課程ができたあとに比べれば、人数的には、まだ少なかったのだが、このころが最も研究室に活気が充ちていた時代のような気がする。
 あれから三十数年、いまや「精密」の文字も消え、まもなく建物もなくなろうとしている。

 しかし、われわれの「精密工学科」は歴史の1ページから決して消え去ることはない。そして「第一講座」という平凡な普通名詞は、「イチコウザ」という、「そこで学んだものしか理解できない」ノスタルジアをもつ固有名詞となって、われわれの胸の奥深くしみ込んでいるのである。
                        おわり