◆岡部先生への追悼文集

『岡部君のこと』      横山 恭男 先生
 岡部君は、私が石川高専に移った後も2、3ヶ月に一度くらい津幡までBMWを転がして、ふらりと校長室に顔を見せていた。庶務の女子事務官も彼が来ると、いつもコーヒーを持ってきた。普通のお客には日本茶なのだが。

彼は改組のおかげで私が在任中既に教授になっていたが人事の相談などを良く持って来た。他の教育機関に移った私の意見を聞く必要はないのだが、考えてみれば、私は利害関係を離れて相談できる数少ない人間のひとりだったのだろう。しかし、以前の事情は良くわかっていても、改組に次ぐ改組で、講座名も覚えられないようになってしまってからは、ただ、彼のグチを聞くにすぎなかったかも知れない。

 学会関係特に精密工学会やその生産自動化専門委員会、あるいは自動化推進協会の運営についても、よく相談にやってきた。

 平成4年秋のロボット学会全国大会のときにも、彼は大会総務幹事として、私を引っぱり出しに来て、結局、私は洒落にもならない『ロボット学会の「ロボット」実行委員長』をやるハメに陥ってしまったのである。

 先日、偶然、この大会直前の爽やかな笑顔をした彼のインタビュー記事のコピーが見つかったので是非見ていただきたい。
 岡部君は、私が、前身の産学共同研究協議会のプロジェクト以来13年間にわたって運営してきた部品供給技術研究委員会の幹事・副委員長として調査研究に大いに協力してくれた。この委員会は生産自動化専門委員会の下部組織なのだが、数年前、彼がその上部機関の委員長になったので、ちょっと、ややこしいことになってしまった。彼が急逝したのは、そのような情況のときである。

 当時、部品供給技術研究委員会の委員に配布した資料には、岡部君の大学および学会における活動情況が説明されているし、私との関わり合いもわかりやすい意味もあると思うのでで、それを、そのまま引用させていただくことをお許し頂きたい。

 ちなみに「部品供給技術研究委員会」は規模を縮小し、精密工学会から独立して、現在「パーツハンドリング研究会」として継続している。


第37回(1998/5/29)部品供給技術研究委員会配布資料

『岡部教授の急逝について』

 金沢大学教授岡部佐規一氏は、去る1998年1月27日膵臓癌のため急逝されました。永年本研究委員会の幹事として活躍され、最近は、本研究委員会の上部機関である生産自動化専門委員会委員長の職にも就いておられたました。  先に(平成9年1月)本会副委員長の吉田鐐一幹事を失い、茫然自失、ようやく、その善後策の協議を主たる議題とした昨年6月13日の委員会に岡部教授も出席していただくことになっており、5月中旬には、私と今後の方針について、細部の打ち合わせをすませ、航空券も用意しておられました。しかるに、5月下旬より不調を感じられ、検査のために病院を訪れて、そのまま入院され、ついに一度も自宅に帰ることなく逝去されました。

 私が年末に12月の委員会報告をもって、2度目の見舞いに訪問したときは、すでに、かなり悪化され、薬のせいもあってか、ほとんど会話もできない症状でした。やむなく、一方的に委員会の様子や皆さんが心配していたことをお話しし、あまり長居して疲れさせてはと早々に引きあげようとする私を追いかけて、エレベータまで見送りに来てくれました。「今度の委員会は5月だから是非そのときは出席して下さい。みんなも待っています。」といったら、うなずいていましたが、その委員会に、このような報告をする事になって痛惜に耐えません。

 岡部教授は助手に任官してから風邪一つ引いたことがなく、病気とは無縁の人でした。

 最近は学内の重要役職(機械系学科の長)を勤められるのみならず、精密工学会・日本機械学会ほか各学会や県市の地方公共団体・バリアフリー研究会その他にも活躍してボラティアにも心いたされ、まさに出藍の誉れ高く、これから、もっともっと活躍を期待していたのですが、残念でたまりません。

 葬儀は盛大に行われ、生産自動化専門委員会、自動化推進協会からも参列していただきましたこと厚くお礼申し上げます。

 本研究委員会としましては、先に吉田幹事を失い、1年後に岡部委員を失うことになり、私も、ちょうど定年退官の時に当たって、表現しがたい無常感におそわれています。

 本部品供給技術研究委員会からも花輪を供えさせていただきましたこと、ご報告して、このレポートの締めくくりとさせていただきます。

                           以上