岡部君は、私が石川高専に移った後も2、3ヶ月に一度くらい津幡までBMWを転がして、ふらりと校長室に顔を見せていた。庶務の女子事務官も彼が来ると、いつもコーヒーを持ってきた。普通のお客には日本茶なのだが。 彼は改組のおかげで私が在任中既に教授になっていたが人事の相談などを良く持って来た。他の教育機関に移った私の意見を聞く必要はないのだが、考えてみれば、私は利害関係を離れて相談できる数少ない人間のひとりだったのだろう。しかし、以前の事情は良くわかっていても、改組に次ぐ改組で、講座名も覚えられないようになってしまってからは、ただ、彼のグチを聞くにすぎなかったかも知れない。
当時、部品供給技術研究委員会の委員に配布した資料には、岡部君の大学および学会における活動情況が説明されているし、私との関わり合いもわかりやすい意味もあると思うのでで、それを、そのまま引用させていただくことをお許し頂きたい。 ちなみに「部品供給技術研究委員会」は規模を縮小し、精密工学会から独立して、現在「パーツハンドリング研究会」として継続している。 『岡部教授の急逝について』 私が年末に12月の委員会報告をもって、2度目の見舞いに訪問したときは、すでに、かなり悪化され、薬のせいもあってか、ほとんど会話もできない症状でした。やむなく、一方的に委員会の様子や皆さんが心配していたことをお話しし、あまり長居して疲れさせてはと早々に引きあげようとする私を追いかけて、エレベータまで見送りに来てくれました。「今度の委員会は5月だから是非そのときは出席して下さい。みんなも待っています。」といったら、うなずいていましたが、その委員会に、このような報告をする事になって痛惜に耐えません。 岡部教授は助手に任官してから風邪一つ引いたことがなく、病気とは無縁の人でした。 最近は学内の重要役職(機械系学科の長)を勤められるのみならず、精密工学会・日本機械学会ほか各学会や県市の地方公共団体・バリアフリー研究会その他にも活躍してボラティアにも心いたされ、まさに出藍の誉れ高く、これから、もっともっと活躍を期待していたのですが、残念でたまりません。 葬儀は盛大に行われ、生産自動化専門委員会、自動化推進協会からも参列していただきましたこと厚くお礼申し上げます。 本研究委員会としましては、先に吉田幹事を失い、1年後に岡部委員を失うことになり、私も、ちょうど定年退官の時に当たって、表現しがたい無常感におそわれています。 本部品供給技術研究委員会からも花輪を供えさせていただきましたこと、ご報告して、このレポートの締めくくりとさせていただきます。 |