3.試験結果と考察
 3.1 光沢度の変化
 図2は,各漆塗膜試料について,加速電圧を変えて水素イオンを注入し,フェードメータにより促進耐光性試験を行った結果である。同図には,SRとKT試料の場合を示す。図中の紫外線照射ゼロの値は,水素イオンを注入した時の光沢残存率であり,いずれの場合も1×1015ions/cm2程度の注入量であれば,光沢の上昇は 30%程度の範囲にある。これらの試料に対して,促進耐光性試験を行うとそれぞれに特徴ある傾向を示す。SR試料では,加速電圧がH-60kVの場合を含み,40kVまでの範囲では未注入試料と同様な傾向を示し,紫外線照射量の増加とともに光沢残存率は一様な割合で低下する。60kV以上の加速電圧では,紫外線照射量が増加しても光沢残存率の低下の割合は小さくなる。なお,H-150kVの場合には,200MJ/m2以上の紫外線照射により,光沢残存率が上昇する傾向を示しており,H-60kVの場合には,300MJ/m2以上で光沢度が上昇する同様な傾向を示している。これらから,60kV以上の加速電圧であれば,紫外線照射により光沢度の減少を抑制できることが分かる。
 ST試料の場合,図は省略したが,SR試料の場合と多少傾向が異なる。90kV以上の加速電圧の場合には,光沢残存率は,紫外線照射量が増加してもほとんど変化しない。H-90kVの場合でも400MJ/m2の紫外線照射でも10%程度の低下である。 H-60kVの場合と,40kV以下の加速電圧の場合,紫外線照射量の増加とともに光沢残存率が低下する傾向を示し,加速電圧によりその傾向が多少異なっている。
 KR試料の場合も同様に,加速電圧がH-60kVの場合と,40kVまでの範囲では,紫外線照射量の増加とともに光沢残存率は一様な割合で低下する。60kV以上の加速電圧では,紫外線照射量が増加すると一旦,光沢残存率が上昇し,その後減少する傾向を示している。なお,H-150kVの場合には,400MJ/m2の範囲では光沢残存率の低下は見られない。
 KT試料の場合,図2(b)に示すように,40kV以下の加速電圧では,他の試料の場合と同様な傾向を示す。60kV以上の加速電圧では,SRやKR試料でみられた光沢残存率の上昇はなく,加速電圧の高いほど光沢残存率が高くなる傾向を示す。
図中の記号:
☆:H-150kV, ★:H2-150kV, ▼:H-90kV, ■:H-60kV, △:H2-60kV ▲:40kV, ▽:20kV ○:1kV, ●:0.7kV, ◎:0.5kV, ◇:0.2kV, □◆:未注入
  (a)透きいろ漆塗膜(SR)   (b)黒つや漆塗膜(KT)  
図2 加速電圧を変えて水素イオン注入した漆塗膜の光沢残存率の変化

 図3は,400MJ/m2の紫外線の照射後の光沢残存率と加速電圧の関係を示したものである。H-60kVとH-150kVでの結果は,H-イオンに換算して,それぞれ30 kV及び75kVの位置にプロットしてある。光沢残存率は,

0〜40kVまでの範囲では,SR,ST,KTは,ほぼ50%の値を示し,KRでは,20〜30%の非常に低い値を示す。60kV以上になると光沢残存率は上昇し,透き漆(SRとST)では100%以上の高い値を保つ。黒漆(KRとKT)では,徐々に上昇し,70〜80%の値で一定となる。
 これらの結果から,漆塗膜の耐光性に及ぼす水素イオンの加速電圧の影響としては,高い光沢残存率を示し,かつ水素イオン注入による光沢の上昇が少ない条件が最適であるので,加速電圧は,比較的高い60kV以上となることが分かる。


 図3 光沢残存率と水素イオンの加速電圧の関係

 3.2 曇り度の変化
 図4は,一例として,SR試料の曇り度の変化を示す。 SR試料表面の曇り度は,紫外線照射により一旦,低下


図4 加速電圧を変えて水素イオン注入した漆塗膜の
曇り度の変化(記号は図2と同じ)


し,その後徐々に増加する傾向を示す。これは紫外線照射により,漆塗膜が重合することにより透けるため,透過度が良くなり,曇り度が低下するものと考えられる。その後,徐々に増加するのは,表面が紫外線により損傷し,磨りガラス状となるためと考えられる。高 加速電圧(60kV以上)の場合には,一旦低下した後の上昇の割合が小さく,150kVでの注入の場合には,紫外線照射を増しても一定の値を保つ。これは,紫外線を照射しても初期の表面状態を保っていることを示している。この傾向は,ST試料の場合も同様であった。

 3.3 色差の変化
 図5は,各種漆塗膜試料に加速電圧を変えて水素イオンを注入し,400MJ/m2の紫外線照射後の色差変化を調べた結果である。水素イオンの注入による色差変化は,4%以下である。未注入の漆塗膜の紫外線照射後の色差は,SRで15%,STで14%,KRで18%,KTで8%まで増大する。水素イオンの加速電圧が高くなるとともに色差変化は小さくなるが,40kV以上になるとその低下の割合が大きくなり,SR,ST,KTの場合には,60kV以上で,KRの場合には150kVで紫外線を照射しない初期の値と同じ値になる。すなわち,紫外線照射を行っても色差変化は生じないことが分かる。

 3.4 レーザ顕微鏡による表面観察
 図6は,加速電圧40kVで水素イオンを注入した漆塗膜に紫外線を400MJ/m2照射した後,水素注入/未注入の境界部分を走査型レーザ顕微鏡で観察した結果であ


  図5 色差に及ぼす加速電圧の影響


図6 走査型レーザ顕微鏡による漆塗膜の表面観察,加速電圧40kVで注入後,紫外線照射(400MJ/m2)

る。同図は,境界部の段差測定のために表面粗さモードで示している。写真倍率に相当する点線間が100μmである。矢印が境界部を示しており,右側が水素注入部,左側が未注入部である。プロファイルの上部点線と下部の波線で囲まれる段差は,KR試料では1.0μm,KT試料では1.5μmとなっている。これらから,加速電圧が40kVの場合でも水素イオン注入による耐光性の改善効果が認められる。特に,黒ろいろ漆塗膜(KR)の場合には,40kV以下での加速電圧では,光沢残存率や色差変化には明確な違いがみられなかったが,漆塗膜表面観察から水素イオン注入の効果が確認できた。

 3.6 TRIM97によるシミュレーション解析
 これらの耐光性試験の結果について,水素イオン注入のシミュレーション解析結果から考察した。図7は,TRIM97を用いて漆塗膜の主成分であるウルシオール(密度 1.25g/cm3,組成比 C:40,H:54,O:6)に,Hイオンを10,000個注入するシミュレーションを行った結果である。生成される格子欠陥は,加速電圧が低くなるとともに浅い位置に分布するようになる。すなわち,加速電圧150kVでは1.5μm,90kVでは1μm,60kVでは0.7μm,40kVでは0.5μm,20kVでは0.3μmとなり,より表面近傍に分布する。また,Hイオンの1×1015 ions/cm2の注入では,格子欠陥は2%程度しか生成されない。格子欠陥によるアモルファスを形成するためには,5×1016ions/cm2以上の多量注入が必要になる。したがって,耐光性向上にはイオン化エネルギーが関与しているものと考えられる。
 水素イオンは,アルゴンイオンや窒素イオンに比べ て衝突断面積が小さいので,ウルシオールの構成原子の散乱や分子の切断割合は小さく,水素イオンの通過により,原子や分子の電子軌道に影響(非弾性散乱)を与え,原子や分子を活性化させる7)。これにより,同図(b)で示した水素イオンが通過したウルシオールの極く表面層では,ウルシオールのラジカル化やイオン化が生じ,ウルシオールの重合が促進されるものと考えられる。加速電圧が高い150kVや90kVの場合に光沢残存率が著しく増加したのはこの原因と考えられる。
 一方,水素イオンを多量に注入した場合,すなわち5×1016ions/cm2以上の注入により,水素イオンの加速電圧に対応した深さの領域がアモルファスになると考えられる。また,イオンの通過領域では,ウルシオールのラジカル化やイオン化によるウルシオールの重合も促進することになる。窒素イオンを注入した漆塗膜のFT-IR解析から,注入層にはグラファイト成分をもつアモルファス成分が生じていることが認められている8)。これらのことから,多量注入の場合には,主成分のウルシオールの他,ゴム質やラッカーゼもアモルファス化することにより,酸素を遮断するバリア層が形成されるものと考えられる。
  


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